鶏を絞めた話
※今回はと殺の話のため、所々で表現が過激です。苦手な方は読むのをお勧めしません
秋の某日、私は色々あって鶏を絞める手伝いをしていた。
頭数も含めて、1人では出来ない。朝早くから私の他にも人が集まった。
台の上にはナイフ、刃の替え(脂で切れ味が鈍くなるため)、ペーパーなどが並んでいた。
一通り説明を聞いてから、各自が持ち回りの配置につく。
暫く待つと、カゴに入って数羽の鶏が運ばれてきた。
鶏は何もわからないという顔をしてはいるが、やけに糞をしていた。小さな冠のある頭を撫でてみる。
担当が、ナイフを握った。
鶏は逆さに持ち上げられ、驚いた鶏は羽ばたいて抵抗する。しかし、諦めたかのように大人しくなった。
ナイフは首に入れられる。絞め方は色々あるが、今回は失血によって絞める方法が取られた。
動脈を縦に切り(横だと血が止まってしまう)、放血する。
鶏は、ゆっくり、とてもゆっくりと目を閉じていく。
本当にゆっくりだった。死にゆく時、全ての鶏は目を閉じた。
5分ほどすると、鶏の顔から生気が完全に消えた。
鶏は台の上に置かれ、部位ごとに分けられる。開いて初めに目につくのはムネ肉だが、実際に鶏の筋肉を目にすると、その大きさと美しい色合いに驚かされる。店先では絶対に分からない。
更に、内臓の配置を確認した。当たり前だが、ヒトと鶏の身体の中は全く違う。究極なまでにコンパクトな配置は、生きる為の全てを持っていた。
食い入って説明を聞き、自分の空の脳みそに突っ込んだ。
筋肉はラップで包み、モツはトレイの上に置いた。
この流れを、私たちは何度も繰り返すことになる。
ここまで書いておいてアレなのだが、私はよく見かける命の尊さを説くようなことはしない。
私は一日に何回も何回も鶏の足を縛った。鶏を逆さにして、ナイフを入れる手伝いをした。血もあらゆるところに飛んで、服や靴を赤く染めた。
同じ作業を休みなく行うと、皆感覚が死んでくる。早く終わらせたくて、鶏への同情とか、そういうのが薄れてくる。
始める前は命の重さ大切さみたいなものを考えたときもある。でも、それが「一連の作業」になってしまった瞬間に、感覚がぜんぶまとめてゴミ箱にぶち込まれてしまった。
戦争してる兵士とかこんな感じなのかなあ、とか思いながら鶏の足を縛っていた。血抜きした。
慣れってつくづく恐ろしいもので、多分あの場所で動物倫理を説かれても「…?」となっていたと思う。
でも、畜産動物に触れている限り、この感覚はいずれ通らなければならなかったのではないか、と今では思うところもある。
経済動物はペットではないため、いずれはと殺しなければならないのが普通だ。
動物を食べ物として位置づけて、人間の手で最期の処理をする以上、育てる喜びと一緒に、この矛盾した感覚は忘れちゃならないのかもしれない。
なんかこう、むずかしい。
牧場とか、と畜場の人にもこういうモヤモヤがあるのかなぁ などと考えながら、ナイフを拭いた。
そして今、私の手元には鶏肉がある。