今日の18:26

仙台は雨だった。


午後3時、母親の病院へ行った。父親と妹の3人で。

母親は明日手術を受ける。そのために執刀医の説明を聞きに行った。


病院に行ったら、変なもやもやした感じがした。胸の奥が詰まったような感じで、これは介護施設と同じ感覚だとすぐ分かった。正直、帰りたかった




執刀医の説明が始まった。長い長い説明で、私はもう胸のモヤモヤ具合がよろしくなかった。

そんな中で、「術後10年後の生存率」ってものがあって、母親は95パーセントだった。高い、良かったね


って思ってたら、父親が執刀医に「術後の経過で生存率は変わるのか」って質問を投げかけた。


そりゃそうだろ

執刀医もそうですね、って答えた。父親は不安そうな顔をしてた。




説明が終わってから預けられた服と本を持って、病院を出た。


雨はまだ降っていて、霧みたいに夜の街中を覆ってて、車のガラスの雨の筋で外のコンビニも油彩画みたいに見えて、現実感がない



くそポエミーなことを考えてたらファミレスについた。

父親の表情が相変わらず硬かった。


そういえば、どうして執刀医は10年後の生存率なんか教えてきたんだろうかと、ふと思った。なんでわざわざ、半分死亡宣告みたいなことをするんだ?

父親は、「生存率が下がってしまうこと」をやけに気にしていた。もしかすると95%の残り5パーセントも引っかかっているのかもしれない。


私は9割超の生存率を喜ばしく思ったのになあ。

結局何も言わずに、飯を食べて家に帰った。


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2月にバイトをおじいちゃんのお葬式で休んだとき、後日そのことがバイト先の人達の間で話題になっていたらしいと聞いた。


亡くなったの誰だろうね、ってずっと話のネタだったらしいことを聞いたとき、他人の死を話題にできることを不思議に思った。


ひとりになった、おばあちゃんのお友達に会った時も、おじいちゃんが亡くなって悲しいね、って何度も言われた。てかバイト先でも何度も言われたし、それしか話を振られなかった。



人って、案外生きることと同じぐらい死ぬことにも執着してるんじゃないか??



葬式から今日のお見舞いが終わるまで、これをずーーっと感じてきた。


赤の他人が死んだことが話題として成り立つぐらいには、死ぬことに人は興味があって、生き残れる可能性よりも死んでしまうほんの少しの可能性に目を向けてしまう。


ぶっちゃけ収集が付かない話題だし、「死について」なんて中学生みたいなこと考えてるのヤバい。



人間生まれた瞬間から死っていうゴールテープを切るために走っているだけなのにな。

生存率も、生きるか死ぬかの2択しかない。生き物は死ぬ時死ぬ

確かに交通事故とかには逢いたくないし、私も車に吹っ飛ばされたときは生に縋りつこうとすると思う。


冒頭のモヤモヤした感覚は、
病院とか、介護施設とかで感じる病気とか死の雰囲気?が多分私は直感的に怖いからかと


思考の纏まりがつかなくなってきた



えっと、だけど死の概念がめちゃくちゃめちゃくちゃ怖いって訳ではない。


だから、周りの人が死について考えるのは、ある意味生きることよりも関心があるんだなって思うことが最近多い。


私は現在彼氏もいないし(うるせー)、大切な人が死と対面することがあまり多くないから父親みたいになってないだけかもしれないけど。



いまは、明日の手術の成功を願っとこうね。